カント 「純粋理性批判」
それまでの人間が物事をいかに捉えるかという「イギリス経験論」と「大陸合理論」の論争に終止符を打つ理論となる「純粋理性批判」。
物自体 ー 現象
私たちは、人という生物として外すことのできない色眼鏡をかけている。
その色眼鏡を通さずして世界を見ることはできず、そうして認識・理解した対象を"現象"と呼ぶ。そして、眼鏡を外すことができない故、決して対象そのものである"物自体"を認識・理解することはできない。
自分の言葉で再説明
生物は対象を認識するための各機能に制限がある。その制限は種別に異なり、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚として生物に備わった機能的部分はその種族に生まれた以上変えることはできない。
猫は赤色を認識できず、人間は2000Hz~20000Hz以外の音を認識できない。
故に、我々はその限界の範囲内でしか実際の対象を理解し得ないのである。
てことかな?
感性 ー 悟性
人は2つの段階を経て物事を理解する。
1つ目が"感性"。これは、物事を感覚的に捉えるものである。その後に、「○○は〜である」と解釈を行う"悟性"を経て対象を認識・理解するのである。
自分の言葉で説明・解釈
私は"感性"=生物が持つ5感を通して対象を認識すること。
"悟性"=言語を通じ、"感性"によって認識した対象を、言語化し理解すること。
ではないかと考える。
もっと深掘りたいこと
人として「共有できるもの」=客観性と捉えたカントであるが、その「共有できるもの」とは厳密にどのラインからどのラインまでなのか、人間科学の点からより具体的に解明されたものを知りたい。
"感性"という点で言えば、男性と女性では視覚的に認識するものが異なるそうだ。歳をとるにつれ聴こえる音の範囲は異なるそうだ。
"悟性"という点で言えば、異なる言語体系を持つ人々は物事を理解する思考回路も異なるという。
それを踏まえて、人はどこまでの部分を実際に「共有できている」のか。
そして、どこまでの部分を誤って「共有できている」と思っているのか。それを現代社会に落とし込んだ時にどのような弊害を生んでいるのか知りたい。
特に、男女という点で違うものがあるにも関わらず、男性的感性が人が本来持っている共通の感性であると誤認され、その結果女性が生きにくい障壁になってしまっているものはないのか。
また、そもそも私たちは各々が異なる環境で育ち異なる前提を持つ。その中で言語や対象物は、自身のみが持ちうるイメージとリンクしていくだろう。
"感性"と"悟性"を経て「共有できる」対象は想像以上に少ないのではないだろうか?
その存在可能性を知らず、同じものを「共有できている」と錯覚し様々な認識のズレが起こってたら?
さらに、現代の科学技術の発展により多様化した意思疎通ツールを通した会話によって「共有のズレ」はさらに起こりやすくなっているのではないか?気になる。
人は結局他人のためには生きれない
一度きちんと読まなければならない純粋理性批判。