鈍化された人間
今の日本という世界を生きる人間はどれほど特異かと思う。
一つあげるとするならば、苦痛を精神的苦痛でしか感じることがないように思う。
この一点がどれほど"人間"という生物の歯車を錆びさせるのか。
たとえば、これでは死というものが限りなく遠ざけられた状態に陥らざるをえない。
"死"というものは物理的な状態である。人の心臓が止まる。生命活動がなんらかの理由で行えなくなった状態。
他人の"死"が日常から切り離された今の日本という世界において、自分自身も物理的な死を感じる機会を持たない。
"死"が薄れれば、必然的に"生"も薄れていく。どちらも曖昧なものになっていき、その精神はうわつき、ただよい、彷徨う。
人はどの時代も、不幸を喰い物に生きてきたのではないだろうか。
そのエネルギーはとてつもなく、人を命尽きるまで動かし続ける。
そうやって不幸から逃れ幸せを求め作られた今の世界。平和でへいわでへいわ。
死が鈍り、生が鈍り、幸せが鈍り、不幸が鈍る。
その中で唯一残るのは精神的苦痛。
排除、しなければ。
そして、苦痛は"自分で"排除できることに気づく。心を鈍らせる。見ないように、聞こえないように、本来何もなかったかのように。
そうしても鈍らせた日々の中で生きる人々にも、何もなかったかのように"できない"ところは残る。苦痛がやむことはなく、より鈍らせていく。
苦痛さえ除けば真の平和が、幸福が手に入るのだから。
このぼんやりとした不幸感を持つ、生への執着にいまひとつかけた人間の歪みは社会の歪みを作り出しているように思う。
自殺。するだろう。精神的な苦痛を耐え忍ぶ日々を続け"生"を続けるか、"死"を選び少しの優越感とともに苦痛を終わらせるか。鈍くなった死は、その恐怖を論理が超える。
社会への関心。なくすだろう。何もなかったように"できる"のに、なぜわざわざ苦痛を自らが取りに行かねばならぬのか。精神的苦痛を排除すべしという欲求は、より良い社会を作るべしという理論を超える。
最後にぼんやりと思うことは、物理的苦痛なくして生きられない人々は異常なのか正常なのか。戦いをなくした人は正常なのか異常なのか。
異常とされるルールで縛られた世界で抗うのは、本能なのかもしれない、逃れられない欲求なのかもしれないと思うと何ともいじらしくかわいそうなものだと思う。
それともいじらしくかわいそうなのは人間の存在そのものなのだろうか。
人は生まれながらに罪を背負い、それを償いながら生きなければならないと唱えられ始めたのはいつだったのだろう。
2000年以上も前から今の世界が見えていたのなら本当に神はいるのかもしれないと期待さえしてしまいそうだ。
国、民族、宗教、理由を作り同じ種族同士で殺し合った。社会を作り、神を作り、王を作り、金を作り、平等を作り、個人を作り、法を作り、国家を作り、やっと手に入れたと思った争いのない平和の中にも幸せを見出すことはできない。
あまりにも、ではないかと恨めしくなるほど精巧に、作られていたとも錯覚するほどの出口のなさ。どこまで行けど手に入ることはない理想郷。
そんなことをぼんやりと考えている中でひとつはっきりとしてくるものは、全人類が幸せになることはない、初めから不可能だったのだ、ということ。