「自由」とは。またそれが与えるのは幸福か不幸か
カントを勉強して初めて気づかされた。
私が今まで求めていたものは「自由」ではなかったのかもしれないと。
人は「理性」を持って「欲望」を抑止できる。そうして行った行動こそが「自由」と呼ばれうるものである。
故に、欲に従い、食べたい時に食べ、寝たい時に寝る、セックスをしたいからする。
これはただの動物と同じであり、自由な状態ではない。
「欲望」から切り離された状態(=因果律から切り離された世界「叡智界」)で、道徳的観念に従って「理性」が下した判断に従って行動を行った時に初めて「自由」と言えるのだと。
なるほど。と思った。
自分は今まで何を根拠に「自由」だと思ってきたのだろうかと振り返ってみれば、見事に逆転した解釈で日々を生きてきたように思う。
理性に縛られた人間はなんて生きづらいんだろうと、思考でがんじがらめになって自分を抑え続け、結局、自分の欲が何かわからなくなるほど"我"を見失い、日々息苦しさを感じながら「自由」を求め、幸せを夢見てきた。
私は、周りに合わせ発した言葉、行動全てが自分の意思がない行動のように思えた。
私が本当にしたいこと、言いたいことではない出来事が作り上げてきた私の"今"はなんて嘘で固められた偽物の自分なんだろうか、私はこれからも嘘を吐き続け、自分が本当は何をしたかったのかもわからぬまま、何が嫌だったのかも言わぬまま人生を終わらせるつもりなのだろうかと自問自答を繰り返した。
そうして「自由」に生きると決意した後から私は、自分の欲に従うことこそが本当の自分を見つめることであると信じて行動してきた。
だが、カントが言う「自由」の解釈を学んだ今、自分がかつて出した結論に何らかの矛盾を感じずにはいられない。
正直今感じるところは「何かをしたい」という欲求は非常に分類が困難で厄介だということだ。
動物的欲求からくる「したい」という思いから行動することが「自由」ではないとしても、本当の自由は何なのか。
本当に道徳的観念に従った行動が自由であり、幸福へと導くのか?
そして何よりも。そもそも「自由」とは、人間を幸福へと導くものだろうか。
「理性」で判断し行動する「自由」は何物にも制限されず、縛られない。
だがひっくり返せば、無限にある答えから何の制限も持ち得ず答えを選ばなければならないとも言える。
人にとって、その作業はとんでもない苦痛になりうるのではないか、と最近思い始めた。
私は常に相反する二つの思いを持っている。
自分の生きる道は誰にも制限されず縛られず、完全なる「自由」の元、私が決め、私が切り開いていくのだと。
そしてそう思うと同時に、こうも思う。
誰かが言い訳の余地も与えないよう否応なしに私の人生を決め切ってもくれないかと。
人とは本当に面倒くさい生き物だなぁと思わざるを得ない。常に相反する矛盾を抱え、さらにその上その状態こそが正しいとさえ思わせる。
鈍化された人間
今の日本という世界を生きる人間はどれほど特異かと思う。
一つあげるとするならば、苦痛を精神的苦痛でしか感じることがないように思う。
この一点がどれほど"人間"という生物の歯車を錆びさせるのか。
たとえば、これでは死というものが限りなく遠ざけられた状態に陥らざるをえない。
"死"というものは物理的な状態である。人の心臓が止まる。生命活動がなんらかの理由で行えなくなった状態。
他人の"死"が日常から切り離された今の日本という世界において、自分自身も物理的な死を感じる機会を持たない。
"死"が薄れれば、必然的に"生"も薄れていく。どちらも曖昧なものになっていき、その精神はうわつき、ただよい、彷徨う。
人はどの時代も、不幸を喰い物に生きてきたのではないだろうか。
そのエネルギーはとてつもなく、人を命尽きるまで動かし続ける。
そうやって不幸から逃れ幸せを求め作られた今の世界。平和でへいわでへいわ。
死が鈍り、生が鈍り、幸せが鈍り、不幸が鈍る。
その中で唯一残るのは精神的苦痛。
排除、しなければ。
そして、苦痛は"自分で"排除できることに気づく。心を鈍らせる。見ないように、聞こえないように、本来何もなかったかのように。
そうしても鈍らせた日々の中で生きる人々にも、何もなかったかのように"できない"ところは残る。苦痛がやむことはなく、より鈍らせていく。
苦痛さえ除けば真の平和が、幸福が手に入るのだから。
このぼんやりとした不幸感を持つ、生への執着にいまひとつかけた人間の歪みは社会の歪みを作り出しているように思う。
自殺。するだろう。精神的な苦痛を耐え忍ぶ日々を続け"生"を続けるか、"死"を選び少しの優越感とともに苦痛を終わらせるか。鈍くなった死は、その恐怖を論理が超える。
社会への関心。なくすだろう。何もなかったように"できる"のに、なぜわざわざ苦痛を自らが取りに行かねばならぬのか。精神的苦痛を排除すべしという欲求は、より良い社会を作るべしという理論を超える。
最後にぼんやりと思うことは、物理的苦痛なくして生きられない人々は異常なのか正常なのか。戦いをなくした人は正常なのか異常なのか。
異常とされるルールで縛られた世界で抗うのは、本能なのかもしれない、逃れられない欲求なのかもしれないと思うと何ともいじらしくかわいそうなものだと思う。
それともいじらしくかわいそうなのは人間の存在そのものなのだろうか。
人は生まれながらに罪を背負い、それを償いながら生きなければならないと唱えられ始めたのはいつだったのだろう。
2000年以上も前から今の世界が見えていたのなら本当に神はいるのかもしれないと期待さえしてしまいそうだ。
国、民族、宗教、理由を作り同じ種族同士で殺し合った。社会を作り、神を作り、王を作り、金を作り、平等を作り、個人を作り、法を作り、国家を作り、やっと手に入れたと思った争いのない平和の中にも幸せを見出すことはできない。
あまりにも、ではないかと恨めしくなるほど精巧に、作られていたとも錯覚するほどの出口のなさ。どこまで行けど手に入ることはない理想郷。
そんなことをぼんやりと考えている中でひとつはっきりとしてくるものは、全人類が幸せになることはない、初めから不可能だったのだ、ということ。
世界がひっくり返る時
生きていたら時々、今まで見ていた世界が逆転するようなことに気づくことがある。
そんな時の気分は大抵雨のしとしと降る寄り目な世界に入り込んだような感じだ。
私が今までそんな気分になったのは、記憶にあるなかで3回だけ。"だけ"なんて、意外と多い。笑
1度目は、キリスト教を信じる女の子と話した時。
自分がその世界に入るためと言うよりは、単純にその子の見る世界を覗いて見たい好奇心から何度か勧誘と言うものをされてみた。
ほとんどの時間は、理解はできるけれど他人事のようで、どうにも毎回気を悪くさせずにやはり興味が生まれないことを伝えていた。結局最後まで。
でもその間で一度だけ、その子の生きている世界を体験したような気になれた瞬間があった。
あぁ、この子が生きる世界は、絶対的に神が頂点にいるのだなと。
単なる理解ではなく実感し納得した。
と同時に、今まで私が見ていた世界が文字通り逆転したような、とても不思議な感覚を覚えたのを今でも忘れられない。
この子と私は一見すると同じ人のはずなのに、その子の目から見る世界はすべての前提に神がいて、自分自身の存在の前にも神がいて。
神を信じる信じないという違いは、単なる宗教の有る無しなんていう文面から感じ取れるオプションの1個みたいな"違い"じゃあない。まったくちがう。なんていうか、こっちは相思相愛だと思っていたのに向こうは付き合ってたとすら思ってないみたいな。(いや例えがチープすぎて逆にわからん‥)
そして今この瞬間も歴史的にも、世界をそう見ている人の方が圧倒的に多いということがさらにくるものがある。感動‥とはちょっとちがうけれどもな。
2度目はいつだったかな、ゼミに入りたての頃だったような気がする。
私は社会学系のゼミに所属していた。何せ記憶力が悪く覚えていることなど途切れ途切れで、その日のことも、断片的にしか覚えていないが、その瞬間のことだけは感覚と共にまだ覚えている。
その日のゼミでは何の流れか憲法の話になり、
ふと先生が、「でも君たちも憲法に教育を受ける権利の記載がなければ、学校にすら行けてませんよ」と言った。
もちろん知っている。知っているし、他人からの口から教えられたし、なんならテストの解答用紙に書いたこともあった‥気がする。
なのにその瞬間、世界が逆転した気がした。
私の頭の片隅の片隅にほっぽられていた「憲法」っていう単語が、今までぼやぼやしていた私が生きている社会の土台に見えて、それと同時になぜか今までつっかえていたものが取れたように気持ちがすごくすっきりした。
自分の生きてきたここは、人間が造ってきた社会で、私はその社会の上に生まれ、生きてきて、生きているんだなと知識でなく実感した時に、私は今まで自分が生きてきた世界のことを何も知らなかったことに気づかされ、世界、社会を知らないからこそ今の自分のことすらもふわふわと掴めないのだと気付いたのかもしれない。
今思えばその瞬間が、私が人間社会の成り立ちに興味を持ち始めたきっかけだった。
3度目、というより3個目はいつだったかな。
初めて感覚を覚えた時がいつだったのか覚えてはいない。不意にその感覚が心を突き上げてくることが何度かある。
そして、今もそれについての解、と言っていいのか、自分なりのまとまった考えはできていない。
ここはなんだか壮大な時間と労力をかけて男性が作り出した"世界"なのではないか、という感覚。
人が時間をかけて築き上げてきた社会。人?違う。男の間違いではないか?
争い、金、経済、性別的役割、社会的常識、生き様の良し悪し。
これは、まだ疑問を抱き始めた段階でしかないのでまとまらず、知識も何も未熟であるので自分の中で消化は全くされていない。困ったものだ。
でも当分悩みには困らなさそうなので良しとしている。
漫画 『ヴィンランド・サガ』
最近、『ヴィンランド・サガ』という漫画を読んだ。
明確な答えは出ていないけれど、書き残しておかなくてはならないような気持ちになり記事を書いている。
作者も言っていたが、『ヴィンランド・サガ』は読者に「生きるとは何か?」「人はなんのために生きているのか?」を問うてくる物語だった(まだ完結してはいないけれど)。
11世紀の北欧を舞台に、その時代に生き、戦う人々の生き様や悩みを通して、その問いを投げかけてくる。
その問いかけは、ただ「生きるとは何か?」という文面が伝えてくるものだけでは足りない。
・人類が続けてきた"戦い、争い"の本当の役割とは何だったのか ただ男の本能を満たすだけのもの 普通の幸せを幸せと思えない人々の道楽 薬物のような存在
・本当の意味で敵はいない なんのために、誰のために戦っているのか その問いにぶつかって初めて争いの無意味さがわかる
・争いの世界が持つ当たり前に対する疑問の投げかけ。 だからこそ考えさせられる今私たちが生きている時代、社会の特異さ
・人の存在意義に対する疑問の投げかけ。 キリスト教の根本にある考え。罪を犯した人間は罪を償いながら生きていくしかない。人が人を殺していくしかないこの世界はまさに人が罪を犯したことに対する代償ではないか。人はどこまで行っても幸せにはなれない。そして争いがなくなった今も人は幸せではない?それならば人は本当にどこまで行っても幸せにはなれないのか。矛盾を抱えた生き物。
・人が最終的に見出すものは何なのか?幸福?絶望? 戦士は死後戦いの世界へと誘われると信じ、戦場で生きるものたち 復讐に生き、自身の存在意義を失うもの
・男の作ってきた歴史と、女の存在 男が作ったルールに女は付き合ってあげているだけ
思い出せる範囲のものを書く殴っただけのメモのような記事で力つきるところが自分のダメなとこ‥
カント 「純粋理性批判」
それまでの人間が物事をいかに捉えるかという「イギリス経験論」と「大陸合理論」の論争に終止符を打つ理論となる「純粋理性批判」。
物自体 ー 現象
私たちは、人という生物として外すことのできない色眼鏡をかけている。
その色眼鏡を通さずして世界を見ることはできず、そうして認識・理解した対象を"現象"と呼ぶ。そして、眼鏡を外すことができない故、決して対象そのものである"物自体"を認識・理解することはできない。
自分の言葉で再説明
生物は対象を認識するための各機能に制限がある。その制限は種別に異なり、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚として生物に備わった機能的部分はその種族に生まれた以上変えることはできない。
猫は赤色を認識できず、人間は2000Hz~20000Hz以外の音を認識できない。
故に、我々はその限界の範囲内でしか実際の対象を理解し得ないのである。
てことかな?
感性 ー 悟性
人は2つの段階を経て物事を理解する。
1つ目が"感性"。これは、物事を感覚的に捉えるものである。その後に、「○○は〜である」と解釈を行う"悟性"を経て対象を認識・理解するのである。
自分の言葉で説明・解釈
私は"感性"=生物が持つ5感を通して対象を認識すること。
"悟性"=言語を通じ、"感性"によって認識した対象を、言語化し理解すること。
ではないかと考える。
もっと深掘りたいこと
人として「共有できるもの」=客観性と捉えたカントであるが、その「共有できるもの」とは厳密にどのラインからどのラインまでなのか、人間科学の点からより具体的に解明されたものを知りたい。
"感性"という点で言えば、男性と女性では視覚的に認識するものが異なるそうだ。歳をとるにつれ聴こえる音の範囲は異なるそうだ。
"悟性"という点で言えば、異なる言語体系を持つ人々は物事を理解する思考回路も異なるという。
それを踏まえて、人はどこまでの部分を実際に「共有できている」のか。
そして、どこまでの部分を誤って「共有できている」と思っているのか。それを現代社会に落とし込んだ時にどのような弊害を生んでいるのか知りたい。
特に、男女という点で違うものがあるにも関わらず、男性的感性が人が本来持っている共通の感性であると誤認され、その結果女性が生きにくい障壁になってしまっているものはないのか。
また、そもそも私たちは各々が異なる環境で育ち異なる前提を持つ。その中で言語や対象物は、自身のみが持ちうるイメージとリンクしていくだろう。
"感性"と"悟性"を経て「共有できる」対象は想像以上に少ないのではないだろうか?
その存在可能性を知らず、同じものを「共有できている」と錯覚し様々な認識のズレが起こってたら?
さらに、現代の科学技術の発展により多様化した意思疎通ツールを通した会話によって「共有のズレ」はさらに起こりやすくなっているのではないか?気になる。
人は結局他人のためには生きれない
一度きちんと読まなければならない純粋理性批判。
レールの引かれた人生
私はまだ若すぎるのだろうか。変化の激しい周りに揺さぶられ、自分の道を見失うのはいやだ。だけれど、その"普通であれ"という言葉が私の心の隙間に入り込み、私を揺さぶる。
レールの引かれた人生。
これを恵まれた環境だから生きられる道であると感謝するべきなのか、作られた道だと憎むべきなのか。答えはまだ見つからない。ただどうしても抗いたい衝動を心に燃やし続けるのみ。
思えば、いつからだっただろうか明確な時期は覚えていないけれど、気づけばその気持ちは常に心のうちで燃えていた。結局、天邪鬼と言われればそれまでの気持ちではある。が、今の私にはその気持ちがすべて。
抗う。いや、抗っているようにみせている。その実態は何なのだろうか。
私はそんな"普通"に縛られていない、いやそもそもそんな"普通"などないのだと、それすら私が作り出した幻想だったのだと突きつけてくる人たちを知っている。
そして自分を振り返った時に、あぁ私はまだ縛られていたのだ。と
いや、縛られていたのではない、縛っていたのか?
私は何に抗い、何を拠り所に生きていたのか?
私が縛られていたのでは無く、"普通"という紐で自分を縛り遊びのような抗いをして、満足していただけではないか?
そう思わされる。
私は憧れる。
人生を生きている人に。人として、生き物として、生を感じて生きる人に。
安全な檻の中でしか生きていけないくせに、檻の外で生きる人に憧れるような、そんな矛盾した自分がどうしようもない。
"普通"という呪縛
今の日本社会の中で暮らしていると、どうしても"普通"という呪縛から逃れることができない。そして私は常にその呪縛から逃れたい。どうしても。
それは自分の意識下、無意識下に常に潜んでいて、自分が縛られていることに気づかないほど当たり前になっていた新しい"普通"という呪縛を見つけることもある。けれど、一度気づけたからといって無くなるものではない。
一度見つけても無意識のうちにその"普通"は何度も何度も私を縛り、その度に私は縛られている自分を見つける。
"普通"の呪縛はあらゆる形で私の行動を歪め、私を純粋な幸せから遠ざける。
ここに私が縛られている"普通"、そしてその縛りを少しでもゆるめるための自分なりの思考の転換方法を記録する。
先に述べておくが、この文章のすべての前提は私の中にあり、私の育った環境が作り出したものである。故に、具体的な視点で理解しようとすれば必ずしも全員に当てはまるものではない。だが、より抽象的な視点で、テーマの本質を軸に理解すれば普遍的なものがそこにある。